Masuk王妃エレオノーラの死は、病によるものだった。
少なくとも、王宮ではそう記録されている。 長く伏せっていた。 食が細くなった。 眠る時間が増えた。 医師の見立てでは、体力が徐々に落ちていった。 だから、誰も疑わなかった。 王妃は静かに衰弱し、祈るように息を引き取ったのだと、皆が思っていた。 けれど、記録は時に、死者の声よりも冷たく真実を語る。 中立薬師が王宮へ到着したのは、翌日の昼前だった。 カインが手配したのは、王宮医師団とは縁の薄い老薬師だった。名をヘルマンという。王都の北区で小さな薬房を営んでおり、貴族に媚びることも、教会に寄りかかることもなく、ただ薬草と処方の正確さで知られている人物だった。 白髪を後ろで束ね、深い皺の刻まれた顔をしている。背は高くないが、目は鋭い。王宮の豪奢な廊下を歩いても気圧される様子はなく、むしろ王宮側の官吏たちの方が彼の沈黙にヴァレンシュタイン公爵家の監督報告は、いつも重い。 紙の量が多いからではない。 もちろん、多い。 領地税、家政費、使用人給金、宝物庫、社交費、分家支援、王都屋敷の修繕、領地の橋、冬前の穀物管理、前当主時代から続く寄付名簿。 公爵家というものは、血筋だけで立っているわけではない。 帳簿の上にも立っている。 むしろ、帳簿を見れば、その家が何を大切にし、何を見ないふりをしてきたかが分かる。 だから、重い。 父の家を見ることは、父の言葉を聞くよりも重い時がある。 北翼の執務室で、エレノアは王家監督官ヘルマンから届いた中間報告を開いた。 表紙には、簡潔にこう記されている。 ――ヴァレンシュタイン公爵家監督報告。 ――当主権限停止後、第一期整理。 ――提出者、王家監督官ヘルマン・グラーツ。 隣には、リリアナが座っていた。 今日は見学ではない。 本人関係者として、一部説明を受ける日だった。 ただし、すべてを見せるわけではない。 家の財産や使用人の個人情報には、閲覧範囲がある。 つい先日作ったばかりの「必要以上に知らないことも保護の一部」という考え方は、公爵家監督にも適用される。 リリアナには、自分に関係する教育費、社交費、王太子妃候補工作に関わる支出、そして今後の生活費に関する部分のみが共有される。 それでも十分に重い。「緊張している?」 エレノアが尋ねると、リリアナは素直に頷いた。「しています」「見たくないなら、今日はやめてもいいわ」「見ます」 答えは早かった。 けれど、手は少し震えている。「知らないままに戻り
王太子府の机に、開封されていない封筒が一つ置かれていた。 白い封筒だった。 封蝋には、王妃基金の仮印と、保護記録担当者の細い確認線が入っている。 表には、こう書かれていた。 ――限定記録。 ――閲覧段階、第三段階以上。 ――開封には理由記録が必要。 ユリウスは、その封筒をしばらく見つめていた。 封筒は黙っている。 当然だ。 紙なのだから。 だが、その沈黙がやけに重かった。 王太子府再教育の今日の課題は、限定記録と閲覧権限。 つまり、「知らない義務」を学ぶ日だった。 以前のユリウスなら、その言葉を聞いて首を傾げただろう。 王太子が知らないことを選ぶ? 民を守る立場の者が? 国の中枢にいる者が? むしろ、できる限り知るべきではないのか。 そう思ったはずだ。 実際、今も半分はそう思っている。 知らなかったから、王妃の療養薬は見落とされた。 知らなかったから、ダリウスに利用された。 知らなかったから、王妃基金の不正も、夫人会の別口資金
灰色の少年が、もう一度救貧院へ来た。 その知らせは、フィオナ司祭からの短い伝言として北翼へ届いた。 ――仮名「灰色」の少年、再訪。妹の熱は下がりつつあり。臨時雇用相談を希望。本人より、リリアナ様が同席可能なら話したいことがあるとの申し出。 リリアナは、その紙を読んでしばらく黙った。 手帳を開く手が、止まっている。 灰色。 あの日、本名を言いたくないと小さく答えた少年。 妹が熱を出していると言い、麦と薬草茶を受け取った少年。 名前の代わりに、自分で選んだ仮名。 リリアナが初めて「本名を無理に聞かない記録」を書いた相手だった。「私が同席していいの?」 リリアナは、エレノアを見た。 エレノアは伝言の文面を確認し、静かに頷いた。「本人が望んでいて、フィオナ司祭が同席するなら。ただし、あなたが聞く役ではなく、立ち会う役よ」「立ち会う役」「ええ。話を急がせない。名前を聞き出そうとしない。本人が話す範囲を尊重する」「分かってる」 リリアナは、そう言いかけてから少し言い直した。「分かっているつもり。だから、フィオナ司祭に従います」「それでいいわ」 エレノアは少しだけ表情を柔らかくした。「行く?」「行きます」 返事はすぐに出た。 怖さはある。 けれど、行かないという選択はなかった。 あの日、自分が書いた記録が、次へつながった。 ならば、その次を見届けたい。 救貧院へ向かう馬車の中で、リリアナは手帳を見返していた。 ――灰色さん。妹が熱。薬草茶。仮名記録。本名申告困難。次回、フィオナ司祭担当。
薬草茶の配布は、朝のうちに止まった。 まだ誰の手にも渡っていない。 救貧院の棚にも、孤児院の保管箱にも、療養施設の湯沸かし場にも届いていない。 だから、被害は出ていない。 ただし、問題は出た。 王妃基金の北翼窓口へ、夫人会から緊急連絡が入ったのは、朝食後まもなくのことだった。 差出人は、デリア・ラングフォード侯爵夫人。 内容は短い。 ――匿名口頭受付にて、療養施設向け薬草茶の香りが前回と違うとの申告あり。 ――配布前に一時停止。 ――薬草品質確認部門へ照会済み。 ――ガスパル氏、乾燥不足の疑いありと仮判断。 ――本日午前、正式確認希望。 エレノアは、その報告を読んだ時、まず安堵した。 止まった。 配る前に。 けれど、その次にすぐ別の重さが来た。 止めたということは、届くはずだった薬草茶が届かないということでもある。 療養施設では、寒さや不眠、胃の不調を和らげるために、その薬草茶を待っている者がいる。 救貧院でも、体を温めるために必要としている者がいる。 不良品を配ってはいけない。 だが、止めたなら、止めた理由を伝えなければならない。 代替品を探さなければならない。 ただ「安全確認のため延期」と書くだけでは、現場は困る。 昨日までの夫人会なら、こう書いただろう。 ――諸事情により配布を延期いたします。 それでは足りない。 諸事情では湯は沸かない。 理由のない延期は、不安を増やすだけだ。 エレノアは、机の上の報告書を閉じた。「オスカー。薬草品質確認部門、夫人会、救貧院、療養施設の担当者を集めてください。小
夫人会の会議室に、小さな木箱が置かれた。 蓋の中央には、紙を差し込める細い隙間がある。 飾りはほとんどない。 鍵は二つ。 一つはデリア・ラングフォード侯爵夫人が持ち、もう一つはミリアム・ローゼン侯爵夫人が持つ。 箱の横には、リリアナが書き直した説明紙が貼られていた。 ――失敗を見つけた時、ここへ入れてください。 ――名前を書かなくてもかまいません。 ――誰かを責めるためではなく、次に直すための箱です。 ――急ぐ内容なら、箱ではなく担当者へ直接伝えてください。 ――「喜ばれた」と書く前に、本当に確認しましょう。 最後の一文だけ少し浮いているが、夫人会には必要な言葉だった。 最初にその文を読んだメイベル準男爵夫人は、困ったように笑った。「最後の一文、胸に刺さりますわ」 ミリアム夫人は平然と言った。「刺さるように書いたのですもの」 デリア夫人は苦笑した。「痛くなければ、また忘れます」 夫人会の部屋は、以前とは少し雰囲気が変わっていた。 壁にかかる花飾りはそのままだが、机の上には菓子皿よりも書類箱が増えた。 香りの強い花も減らされ、代わりに物品仕分け用の札、針仕事用の布見本、支援先一覧表、失敗報告用紙が置かれている。 華やかさが消えたわけではない。 けれど、華やかさの下に実務の匂いが混ざるようになった。 その変化を嫌がる夫人もいる。 逆に、前より居心地がよいと言う若い夫人もいる。 夫人会は、まだ揺れていた。 だからこそ、匿名箱が置かれた。 失敗を報告する。
副責任者制を導入する。 そう決まった翌朝、エレノアの机はいつもより少し広く見えた。 書類が減ったわけではない。 むしろ、増えている。 王妃基金の次期三か月計画案。 各部門の副責任者任命案。 判断権限表。 報告経路図。 緊急時対応手順。 未確認事項の上げ方。 副責任者ごとの空欄理由欄。 エレノア本人の業務時間記録表。 最後の一枚だけは、見なかったことにしたかった。 だが、机の中央に置かれている。 しかも、リリアナの字で小さく「ここも大事」と書き添えられていた。 エレノアは、その文字を見てため息をついた。 大事なのは分かっている。 分かっているからこそ、厄介なのだ。 人へ任せるということは、自分で見られなくなる部分が増えるということでもある。 それは、今までの事件で何度も危険だと確認した。 ダリウスへ任せすぎた王太子府。 アルマンへ家政を委ねすぎたベルナール分家。 夫人会の名声に資金と支援先を預けすぎた王宮。 母に守られ、知らされないままにされたリリアナ。 すべて、任せることと見ないことが混ざっていた。 だから、エレノアは任せることが怖い。 でも、自分一人が抱えれば、別の危険が生まれる。 王妃基金の再建が、エレノアという一人の能力と体力に依存する。 それは、王妃が望んだ制度ではない。 王妃個人の善意に依存しないために常設基金へ変える。 そう決めたのに、今度はエレノア個人の実務能力に依存するなら、形を変えただけだ。 机の上の任命案を見る。 孤児院・救貧院支援副責任者。 基金事務官ヘン